忍者ブログ
From .05.MAY.2009
[645] [644] [643] [642] [641] [640] [639] [638] [637] [636] [635]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 

 【2月03日の「今日は『エロ成分』は抜きぜよ!」日記】
 広島県福山市鞆ノ浦で目覚める。
 早朝の日の出前に宿泊ホテルの屋上露天風呂に。 聞こえは良いけど、屋上の吹きっさらしに少し大きめのユニットバス風味。
 先客に関東から来たオジサンが一人。
 二人で湯に浸かりながら、春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく海辺を眺める。

 眼下に向かいの『仙酔島』に渡る「福山市立渡船乗場」に渡船が一隻 停船していた。
 おジサンより「あの船『平成いろは丸』って名前なんですよね」という話が出る。
 私が「沈んだ船の名前を付ける神経が判りませんな」というと、意外に受けて嬉しかった。
           DSC_9239.jpg    

 《いろは丸沈没事件》 

 1867年5月26日(慶応3年4月23日)23時頃に伊予国大洲藩所有で海援隊が借り受けて長崎港から 大坂に向かっていた『いろは丸』と、長崎港に向かっていた紀州藩の軍艦「明光丸」が備中国笠岡諸島の六島付近で衝突した。
 『いろは丸』は大破し自力航行不能となって、船舶の修理施設の整った近くの備後国沼隈郡鞆の浦へ明光丸により曳航される途中に、鞆の南10km付近にある沼隈郡宇治島沖で沈没した。
 搭乗していた「坂本龍馬」はじめ海援隊士などいろは丸乗組員は明光丸に乗り移ったあと鞆の浦に上陸した。龍馬は紀州藩の用意した廻船問屋の升屋清右衛門宅や対潮楼に4日間滞在し賠償交渉を開始したが、交渉がまとまらぬうちに明光丸が長崎に向けて出港し、再交渉を行う為に後を追った。
 長崎奉行で海援隊・土佐商会および土佐藩と紀伊藩とで争った。 土佐側はミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいたと主張し、明光丸の航海日誌や談判記録を差し押さえ事件の原因を追及した。紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたものの、龍馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及した。さらに、民衆を煽り紀州藩を批判する流行歌を流行らせた。なお、2006年に行われたいろは丸の調査では、龍馬が主張した銃火器などは発見されなかった。
 事故から1か月後に紀州藩が折れ、賠償金8万3526両198文を支払う事で決着した。 この事故は、日本で最初の海難審判事故とされている。(以上Wikipedia参照)



 いやぁ、「引用参照」が多いと日記が楽チンぜよ。
 
 

PR

コメント


コメントフォーム
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード
  Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字


トラックバック
この記事にトラックバックする:


忍者ブログ [PR]
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
フリーエリア
最新コメント
[01/31 時計コピー]
[11/29 BadsMaru]
[11/28 NONAME]
[06/18 石田達也]
[04/16 Awaftma]
最新記事
(10/22)
(02/14)
(02/12)
(02/09)
(02/08)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
BADsMARU
年齢:
65
性別:
男性
誕生日:
1959/08/18
職業:
さまよえる会社員
趣味:
快楽追求派
自己紹介:
GUN, MUSIC, MOVIE, BIKE, COMIC, PUSSY CAT LOVE LOVE !!
バーコード
ブログ内検索
最古記事
(05/05)
(05/06)
(05/07)
(05/08)
(05/09)
P R
アクセス解析